多聞山西福寺の歴史

建立  応安元(1368)年 ※南北朝時代

開基  寿円(俗姓「源泰氏ノ後裔氏経」)

【西福寺縁起】

吉川村戸坂に荒井刑部輔実敏という郷士がいた。あるとき、一日中狩りをして、鷹の雛を射殺した。すると、一羽の鷹が屋上に来て、終日悲泣した。実敏は、これは射止めた雛鳥の親だろうと思い、不快感を感じる間なしに、愛児が急病に罹り遂に死亡した。実敏は愁傷、日夜悲嘆の涙を流し泣いた。そして、荒井刑部実敏は親鷹の悲鳴を思い浮かべて、「親子の愛情は人も畜生も同様なのだ」と深く悟り、菩提を弔いたいと頻りに願う心を起こしていた。

折りしも、京都辺りから、寿円という僧侶が弟子を伴い実敏の家に来て、一夜の宿を請い願った。「これは、遠きよりの仏縁なり」と思い丁重にもてなした。そして、先の鷹狩りの話と亡児のことを語り、亡き子と死んだ雛鳥の追善供養を、寿円に乞い願った。寿円は、その願いを快く聞きとどけて、三七日(21日)の間、熱心に供養の読経を拝誦して懇切な法要を営んだ。

その満願の日の夜、亡き雛鳥と愛児が実敏に告げた。「私達は、追善の功徳により天上界に生を受けた」と。実敏は、そのことを大いに歓び、寿円の高徳に覚りを受け、帰依して、髪を切り弟子となり乗円と名乗った。

ある夜、乗円は弟子を引連れて家を出て、東方をみた。すると、山中に嚇々たる光りが輝きあたかも日中のようであった。奇異不思議に思い、共にその光りのする所に行って見ると、地中より光りを放っていた。これはなんだろうと奇異を感じ土中を掘ってみると、一体の仏像が出た。傍らの池の水で洗ってよくよく見ると阿弥陀仏の尊像であった。乗円が「これはどういう訳なのか」と、寿円に尋ねると、寿円は「これは仏法有縁の霊地であり、われ等に諸天が授けた霊仏である。無量の歓喜、限りない慶びである」と答えた。寿円はこの地に仏閣を建立する志を頻りに願った。

よって、乗円はこの地を寿円に与え、浄財を喜捨して一宇を建立して、師弟共々に住し、禅法を修業した。これが即ち発光院多聞山西福寺の創立である。

その後、乗円は本寺の第二代を継ぎ、他の弟子等は各末庵を設けた。専正は「専正寺」と、専徳は「専徳院」と、善念は「善念坊」と、宗蓮は「宗蓮坊」と号したが、すべて中古廃絶していおり、現在は名称寺跡のみとなっている。

★以上の話は、藤井昭編著『安芸の伝説』(第一法規出版)に

「東広島市八本松町吉川の地に一人の郷士があった。一日、狩りをして雛鷹をとって帰ったが、一羽の鷹が、その家の上を悲鳴をあげて飛ぶこと終日におよんだ。しばらくして郷士の愛児が病にかかり死んでしまったのである。郷士は鷹の悲鳴を思い浮かべては、深く無常を感じる日々を送っていた。

そんな時、京都の僧寿円が郷士の家へ宿を乞うたのである。これも何かの因縁と歓待し、亡児と死鳥の追善の供養を頼んだのである。二十一日間の読経法要が終わる満願の日、亡霊はついに成仏できたと郷士に告げた。

郷士は大そう喜び、みずから乗円と称する僧となった。ある夜、戸外に出て見れば、東方の山中に嚇々と輝く光明があり、あたかも日中のように周囲を照らしていた。そこへ行って、掘ってみれば一体の仏像がでてきた。泉で洗ってよく見れば阿弥陀仏の尊像である。喜んで、これをまつるために仏堂を建てたのがおこりであるという。また、仏像を洗った泉を洗躰池と呼ぶようになったという。」

と紹介されている。

 

【浄土真宗へ改宗】

天文17(1548)年、槌山城主であった菅田越中守光則・大林和泉守隆兼・尾和備後守秀義の三武将は、ときの住職 宝藏に帰依して檀徒となり、毘沙門天王の木像を寄附し鎮守堂を創立した。同21(1552)年9月、三武将等は祖先累代の菩提追福を懇請し、宝藏は「大般若経転読の法要」を執行して、数万の小石に大般若経を書写して土中に埋め、五輪の石塔を安立した。そして同23(1554)年、宝藏は禅宗を改め、真宗に帰依して本願寺末寺となった(宝藏は真宗住職初代となる)。

第2代住職 道清(俗名は、藤島土佐守為清ノ二男 市之進)は、紀州国(現在の和歌山県)根来の武士で、石山合戦(織田信長と本願寺の争い)に参戦した。その功により、本願寺より「蓮如直筆の六字名号」を賜ったという。永録2(1559)年、開基 寿円及び乗円の古墳を修築し、輪塔を安立した。寿円の墓は境内に現存する(乗円の墓は戸坂にあると伝えられる)。

 

【寺号の公称】

寛文年中(1654年頃か)、寺院取調べの際に、無根の流言に迷い、申し出が遅延しことにより、寺号公称を許されず、道場を号することとなる。その後、寺院公称許可の請願を、郡役所に3度提出している。その請願書は、寺院名公称の懇願が縷々記述されていて、一度消された寺号の復活の困難さが窺える。

しかし、明治11(1878)年10月7日、前記の由来をもって、寺号の公称を許可された。

 

【現在の境内]

本堂西側に池があり、「洗躰池」という。鎮守堂は、現在 経蔵となっていて、大藏経とともに毘沙門天王木像(作者不明)が安置されている。五輪の塔は経蔵東隣の土盛上に現存している。