今回のことば
空谷の跫音(くうこくのきょうおん)
[荘子(徐無鬼)「それ虚空に逃るる者…人の足音の跫然たるを聞きて喜ぶ」]
空谷に聞こえる人の足音。転じて、寂しく暮らしている時に受ける人の訪れ。また、非常に珍しいことのたとえ。空谷の足音。
(『広辞苑 第七版』)
ことばからの気づき
今回はこの言葉から、出会いをとおして「はたらき」に出遇う尊さを味わいます。
人は思いがけない出会いに感動するものです。ときに奇跡としか言いようのないできごとに、運命を感じることもあるでしょう。しかし、会いにきてくれた側からしたらどうでしょう。
以前、『川口浩探検隊』というテレビ番組がありました。世界中の秘境を、さまざまな困難に遭いながら探検していくという内容です。画面には、人が足を踏み入れたことのない地を進んでいく探検隊の姿が映しだされます。ときには、隊員たちの顔を正面からとらえた影像もあります。でも、そのときカメラマンはどこにいるのでしょう。それは隊員たちの前を歩きながら、後ろを撮影をしているのです。つまりスタッフが探検隊の先を行き、隊員たちは、後を追っている。当時、制作に関わっていた人たちによると、ドキュメンタリーではなくバラエティー番組として、先回りをしてさまざまな演出をしていたそうです。後に、同じ放送局のワイドショー番組がやらせ事件を起こしたことから、やがてこの番組も放送されなくなっていきました。
もちろん「やらせ」や過度な演出は気持ちのいいものではありません。しかし、出演者の安全などを考えたとき、下調べをしたり、準備が必要なこともあるでしょう。一方で、そうしたことを、故意に隠し、いかにも偶然をよそおって、とてつもないことが起こっているように、視聴者を誤解させるのはいかがなことかと思います。
こういった誤解は、身近なところでも起こるのではないでしょうか。思いがけない出会いを、自分の考えや経験だけで評価して、奇跡が起こったと思うこともあるでしょう。しかし、こちらが奇跡のような出会いだと思っていても、訪ねてくる側からすれば、長い間こちらのことを思い続けて、準備を整えて、ようやく出会うことができたのかもしれません。わたしから見れば思いがけないことであっても、相手からすれば「出会って当然の出会い」もあるのではないでしょうか。
真宗のことば 1:なんしんのほう 難信の法
きわめて信じ難い法という意。本願救済の法は、世間の常識的な道理を超越しているから、自力にとらわれた心では信じ難い法であるということ。そのことはまたこの法の尊高をあらわしている。『小経』には「一切世間のために、この難信の法を説く。これを甚難とす」、異訳の『称讃浄土経』には「一切世間極難信法」と説かれる。また親鸞は「化身土巻」において、『小経』の隠彰の義について「彰といふは、真実難信の法を彰す」と述べている。
(『浄土真宗辞典』本願寺出版社)
真宗のことば 2:うどんげ 優曇華
優曇は梵語ウドゥンバラ(udumbara)の音訳。優曇鉢華・優曇鉢樹ともいい、霊瑞華と意訳する。3000年に一度開花するといい、仏に遇いがたいことや、きわめて稀なこと、すぐれたことが起こることなどの喩えとされる。
(『浄土真宗辞典』本願寺出版社)
ことばを味わう
親鸞聖人はお念仏のみ教えは「難信」であるから、私たちの力ではとうてい信じられるものではないとおっしゃいます。「教えに出あうことは優曇華を見るように稀なことだ」と言われるのです。しかし、それは教えに遇うことが「不可能」なのだということではありません。それほど遇い難い教えに、今、ここで出遇わせていただいているよろこびを伝えてくださっているのです。だからこそ「遠く宿縁を慶べ」とお示しくださいます。優曇華が咲くまでの3000年間、どれほどのはたらきかけが、優曇華の根や茎、葉にあったのでしょう。それらの縁が調い、熟してようやく花が咲いたのです。
私がお念仏のみ教えに出遇わせていただくまでに、どれだけ多くのはたらきかけがあったのでしょう。阿弥陀仏は私が心を向ける前から、「真実のよろこびの中に歩む者へと成らせたい」と願い続けてくださっています。そして、そのはたらきが、いまの私の身に「南無阿弥陀仏」と成就してくださっているのです。そのことに気づかされたとき、難信の法との出あいは、阿弥陀仏よりの必然の出遇いであったと、よころこばせていただけるのです。
今日のまとめ
- 「難しい」=「不可能」ではなく、「よろこび」のことば。
- 尊いのは「結果」ではなく、ご縁が調うこと。