今回のことば
けん‐じゃ 【賢者】(ケンシャとも)
①かしこい人。賢人。
②仏道を修行して、いまだ悟りを得るまでにはいたっていない人。↕聖者
(『広辞苑 第七版』)
「賢さ」が生む孤独や分断
今回は「賢さ」と「愚か」さについて味わいます。
現代社会において「賢さ」の定義は大きな転換期にあります。これまでの「知識の蓄積」や「処理速度」という個人の能力の高さを競う時代から、これからは、「情報を編集し、他者とつなげる力(共創)」や「問いを立てる力」という「賢さ」が求められています。「ワンチーム」という言葉もよく聞かれるようになりました。ところが、「○○ファースト」というスローガンでチームの結束を強くするなかで、チーム以外を敵視し、排除する考えもみられるように感じます。私たちは自分を「賢い(あるいは正しい)」側に置いたとき、反対の者を「愚か」と定義しがちです。自分たちの枠に合わない存在を切り捨てる「賢さ」が、現代を生きる私たちの孤独や分断を深めているのかもしれません。「いつ、自分が排除される側になるかもしれない」「賢くなければ居場所を失うかもしれない」という不安は、いまも昔もかわりません。
浄土真宗のことば1:ぼんぶ 凡夫
梵語プリタグ・ジャナ(prthag-iana)の意訳。必栗託仡那と音訳し、異生とも意訳する。凡愚ともいう。聖者に対する語。四諦の真理をさとらず、貪・瞋・痴などの煩悩に束縛されて、六道を輪廻する者をいう。
浄土真宗のことば2:ひそうひぞく 非僧非俗
僧でもなく俗人でもないという、親鸞が示した自身の立場のこと。「化身土巻」に「あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。しかれば、僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす(或改僧儀賜姓名処遠流予其一也爾者己非僧非俗是故以禿字為姓)」とある。非僧とは、承元の法難によって流罪に処された時に僧籍を剥奪されたことから、「僧尼令」にもとづいた国家公認の僧侶でなくなったことをいう。非俗とは、種々に解釈されるが、妻帯をしていても、法衣をつけて、世俗の権勢にこびず、名利をいたむ心をもって念仏者として生きるのだから単なる俗人でもないということとされる。このような宗教的態度を表明するために親鸞は「禿」を姓とし、さらに自身の愚悪を表して「愚禿」と称した。後年は「愚禿釈親鸞」などと自署するが、「愚禿」は「非僧」を示す姓、「釈親鸞」は「非俗」なる仏教徒としての自覚を示す名とみられる。
(『浄土真宗辞典』本願寺出版社)
「愚禿」とし生きるよろこび
親鸞聖人は、人間の真実の姿を「凡夫」あるいは「凡愚」と見つめました。凡夫とは、真理を悟らず、貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)という煩悩に縛られ、迷い、苦しみをくり返す者を指します。そして、自身を「愚か」な「凡夫」であるといわれました。しかし、それは教えに出遇えたよろこびの言葉なのです。
聖人は修行によって賢くなろう、さとりを得ようとすればするほど、自分の愚かさに突き当たっていかれます。そんななか、法然聖人をとおして、「凡夫」を目当てとしはたらき続けてくださる、阿弥陀仏の大きな智慧と慈悲の心を聞いていかれました。そのことによって、「賢い」「愚か」を問わない揺るぎない救いに出遇っていかれたのです。
ところが、その出遇いはあらたな排除へとつながります。ときの権力から居場所を奪わた親鸞聖人は、そのことにより、社会からも、時には既存の教えからも見捨てられた人々と出会われます。そして、そうした人々とともに、阿弥陀仏の本願を依りどころとして生きる、「愚か」な「凡夫」として歩んでいこうとされました。だからこそ、「愚禿釈親鸞」と名のっていかれたのです。
「凡夫」や「愚か」とは、自分を卑下する言葉ではありません。阿弥陀仏の大きな智慧、慈悲を依りどころとし、「ありのまま」の自分が丸ごと抱えこまれているという安心の中に生きるという、よろこびの表明です。
このことばにより、現代を生きる私たちには、能力や評価という「賢愚」の物差しに振り回されるのではなく、誰もが真の仏弟子「釈○○」として、共に敬い合いながら「いま、ここ」を歩んでいく道が示されていくのです。
今回のまとめ
- 「愚かさ」を認めることは、阿弥陀仏の慈悲に出遇うこと
- 確かな安心のなかに、お互いを仏弟子とし敬い合う