そ・う【沿う・添う・副う】ソフ
自五 線条的なもの、または線条的に移動するものに、近い距離を保って離れずにいる意。
①側近く寄る。ぴったりとついている。万葉集(11)「赤土の小屋に小雨降り床さへ濡れぬ身に―・へ我妹」。宇津保物語(吹上上)「樺桜一列なみ立ちたり。それに―・ひて紅梅なみ立ちたり。それに―・ひてつつじの木ども北になみ立ちて」。枕草子(173)「立蔀の間に、かげに―・ひてたちて」。「川に―・った道」「影が形に―・う」
②基準となるものから離れないようにする。「既定方針に―・って行う」
③かなう。適応する。「御期待に―・うよう努力します」
④あるが上に加わる。つけ加わる。源氏物語(葵)「御息所は、物をおぼし乱るゝ事、年ごろよりも多く―・ひにけり」
⑤つきそう。同伴する。源氏物語(賢木)「親―・ひ下り給ふ例もことになけれど」
⑥夫婦として共に居る。つれそう。万葉集(11)「身に―・ふ妹し思ひけらしも」。狂言、猿座頭「身共が所へ連れていて、千年も万年も―・はうぞ」。「―・われぬ縁をなげく」
⑦交わる。交際する。日葡辞書「ヒトニハソウテミヨ、ウマニハノッテミヨトイウ」「ソイヨイヒト」
『広辞苑 第七版』
今回は「そう」について味わいます。
数字に踊らされる老後の不安
2019年に突如、「老後資金は2千万円が必要」というニュースが話題となりました。金融庁が高齢者の収入と支出についての統計をもとにした報告書に記載があったようですが、「根拠があやふやだ」と各方面から異論が出ました。とくに、データ元になった世帯が約千五百世帯に過ぎないのが問題でした。
ひとくちに「高齢者」といっても、「ひとり暮らしか、家族との同居か」「働いているか、いないか」「持病を抱えているか」など、その人のおかれている状況はそれぞれであり、だれひとりとして同じ状態の人はいません。それなのに十把一絡げで「2千万円必要」とされたことで、感情的な反応がおき、数字が独り歩きをしてしまいました。それは自分の老後に対する不安への裏返しだったのかもしれません。その不安に最後まで「寄り添って」くれるものはなんでしょう。
浄土真宗のことば1:せっけ 摂化
摂取化益の略。衆生を救いとって、教化し利益を与えること。『礼讃』には「光明・名号をもつて十方を摂化したまふ」(行巻引文・註165)とある。
浄土真宗のことば2:せっけずいえん 摂化随縁
衆生の機縁にしたがって教化すること。『浄土和讃』に「二智円満道平等 摂化随縁不思議なり」(註564)とある。
(『浄土真宗辞典』本願寺出版社)
私の思い(思議)ではコントロールできない「縁起」の現実
仏教では「ものごとにはすべて原因となるものがある」という「因果の道理」を説きます。しかしそれは、「今起こっている問題は、過去のあの行いが原因です」などという一対一の関係ではありません。さまざまな原因が、それぞれ条件(縁)が整うなかにひとつの結果が起こるのです。これを「因縁生起(縁起)」といいます。この「縁」を「思議(自分の思いやはからい)」することはできません。
私たちには「老」「病」「死」の問題がつねに起こります。他人がさまざまなだけでなく、私をとりまく「縁」も刻々と変わり続け、さまざまな姿となるのです。しかもそれは「思議」だけではどうにも解決できないものです。自分の力で因を整えたとしても、願ったとおりの結果が起こるかどうかはわかりません。ですから自分の力だけでは、人は不安を解決することができないのです。
声の仏さまとなって私の「縁」にぴったり添う阿弥陀仏
だからこそ阿弥陀仏は、私の「思議」を超えて、どのような私であっても救っていきたいと願われます。「衆生(すべてのいのち)」を救うとは、「みんなを十把一絡げに」ということではありません。「南無阿弥陀仏」の声となって、「縁」によって迷い苦しむ私に随って、ぴったりと寄り添い、決して離れることがありません。そのはたらきに摂めとられたとき、「私の『思議』を超えた『不思議』なご縁によって支えられ、導かれていた身であった」とのいのちの豊かさに目ざめていくことができるのです。これが現世での浄土真宗の救いの利益です。
今回のまとめ
●すべては「因縁生起」。だれひとりとして同じ人はいない。
●どのような姿になろうとも、決して見捨てず摂め取ってくださる、阿弥陀仏の「摂化随縁」。