〔本文〕

建立無上殊勝願 超発希有大弘誓

〔書き下し文〕

無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。

(『顕浄土真実教行証文類行文類 浄土真宗聖典註釈版』203ページ)

〔現代語訳〕

この上なくすぐれた願をおたてになり、世にもまれな大いなる誓いをおこされた。

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類-現代語訳』)

第6願「設我得仏 国中人天 不得天眼 不至不見 百千億那由他 諸仏国者  不取正覚」(令得天眼の願)

たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、天眼を得ずして、下百千億那由他の諸仏の国を見ざるに至らば、正覚をとらじ

(『顕浄土真実教行証文類行文類 浄土真宗聖典註釈版』16ページ)

わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が天眼通を得ず、数限りない仏がたの国々を見とおすことができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

(『浄土三部経-現代語訳』〔本願寺出版社〕)

世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、少なくとも百千億・百万の諸世界を見るだけの超人的な透視力(天眼通)を持っていないようであったら、その間はわたくしは、〈この上ない正しい覚り〉を現に覚ることがありませんように。

(『浄土三部経(上)』中村元・早島鏡正・紀野一義訳注〔岩波文庫〕)

ろくじんつう 〔六神通〕 梵語シャッド・アビジュニャー(sad-adhijna)の漢訳。六通ともいう。すぐれた智慧に基礎づけられた自由自在な活動能力。①神足通。欲する所に自由に現れることができる能力。②天眼通。世間のすべてを見通す能力。また衆生の未来を予知する能力。③天耳通。世間一切の苦楽の言葉、遠近の一切の音を聞くことができる能力。④他心通。他人の考えていることを知る能力。⑤宿命通。自己や他人の過去のありさまを知る能力。⑥漏尽通。煩悩を滅尽させる智慧。六神通のうちの前の五は凡夫にも得られるが、第六の漏尽通は聖者のみが得るといわれる。

(『浄土真宗辞典』本願寺出版社)

道諦(さとりへの道)

道諦

 人生は苦であり(苦諦)、その苦の原因は煩悩である(集諦)。そして、苦(その原因である煩悩)を滅した境地が、涅槃のさとりであると示された釈尊は、次に涅槃に至る方法を説かれました。それが四つ目の真理「道諦」です。

 「道諦」とは、「苦(その原因である煩悩)を滅して涅槃のさとりに至る方法が、八正道である」という真理です。

八正道

 「八正道」とは、具体的には「正見(正しい見解)」、「正思惟(正しい思索)」、「正語(正しい言語)」、「正業(正しい行為)」、「正命(正しい生活)」、「正精進(正しい努力)」、「正念(正しい思いの持統)」、「正定(正しい精神統一)」です。

 この「八正道」の中、一番根本的なものは、第一番目の「正見」です。ここでいう「正しく見る」とは、偏った見方をせず、ありのままに見る(「中道」)ということです。正しく物事を見ること(正見)によって、正しく考え(正思惟)、正しい言葉も使える(正語)というように、それ以下のことが可能なのです。

 この八つの正しい道を歩むことによって、煩悩を滅し、涅槃のさとりに至ることができるのです。

(『高校生からの仏教入門 釈尊から親鸞聖人へ』小池秀章著〔本願寺出版社〕)

仏教は仏道ともいわれます。仏に成る教えであり、私たちが仏に成るための道でもあるのです。仏に成るとは、煩悩を滅して涅槃のさとりを得るということ。釈尊はそのさとりに至る道こそが、私たちが本当のよろこびのなかにこの人生を歩める道であるとお示しくださったのです。その道の第一歩が「正見」であり、正しく物事を見る眼をもつということです。

 しかるにここでは天眼通とは「諸仏の国を見る」ことになっています。しかれば広く知識を求め自覚を深めることも天眼通でありましょう。われわれがお経を読みお聖教を読み、学問をするのは何のためにするかというと、自分の出離生死の要求、自分がほんとうに救われていきたいという願いを訓練するためである。その願いのはじめは不純なものでありますから、それを教えによって訓練してもらわねばならない。だから教えによって訓練され、ほんとうにその願いが純粋なものになれば、そこでわれわれは救われるのであります。

 そういうふうに見ていきますと、天眼通というのは人間の知識の満足でありましょう。天眼ということは、つまり肉の眼で見えないものを見るのであります。すなわち諸仏の国を見るのである。科学には科学の仏あり、哲学には哲学の仏あり、それぞれのものにはみな仏がある。それぞれに智慧の天眼を開いて、そうしてどこまでも知識の要求を満たすのであります。

(『四十八願講義』金子大榮著〔法蔵館〕)

浄土に至るものが天眼通を得るとは、仏の智慧によってどのように救わていくのかをお示しくださっています。正しく物事を見るとは、智慧による視点をいただくということです。それは外の物事をみるだけでなく、自らのいのちの有り様、行方を見ていく眼をいただくのです。

 天眼とは、智慧の眼です。すべてのものを、自身の「我心」で分別することなく、また自分の都合のいいように色をつけて見るのではなく、ありのままに見る眼です。

 仏さまは「如実智見」で、「あるがままにものを見る」智慧の眼の持ち主です。

 それに比べ、私たちの眼は、自分のおかれた立場や、その時の自分の都合に合わせ、ものも人もすべて分別の眼でみています。

 法相宗(奈良薬師寺・京都清水寺)の唯識論(あらゆる存在・事象は、心の本体である〈識〉のはたらきによって仮に現れ出されたものという説)で使われる譬に「一水四見」「一境四見」があります。

 同じ水を、天人は宝で飾られた池、人間は水、餓鬼は膿血、魚は住処と見ることで、同一対象でも見る者の立場が異なると、おのおの異なった見解を抱く(『新仏教辞典』)ということです。

 私自身で考えてみても、お腹のすいている時は食べもの屋の看板がよく眼にとまり、一杯飲みたいという気分の時は、私の眼は飲み屋を探しています。(若い時の話です)

 服装に関心の強い人は、どうしても洋品店に眼がいくでしょう。自分の好みのものが安く手に入る店を知っているのも、自分の好みのはっきりした人です。

 例を挙げればきりがありません。そこには何も問題がないようですが、私たちは自分の好みを最優先し、自分の眼が確かだと思い込み、他の人の眼はおかしいと思うから難しいことになるのです。(中略)

 「如実智見」という仏の眼にほど遠い眼をもつ自身に少しでも気づき、慚愧(自己中心の眼を正当化しているという気づき)が少しでも芽生えれば人生は大いに変わり、いろんな束縛を離れ自在になれると思います。第六願を誓ってくださった如来さまのおこころを、自身のあり方に当てて味わいたいものです。

(『四十八願を語る 上』藤田徹文著〔探求社〕)

智慧の眼をいただき、自らの行末を見させていただくと、私が煩悩によって物事を見ている姿であると気づかされます。その見方が苦しみ悲しみの原因であると気づいて欲しいというのが仏の願いです。

 この願の[天眼]を文字通りに読めば、どうなるのか。それは「天・高い所から見る目」となります。低い目、表面的な物を見る目、近い周辺のことを見る目に対し、高い所から、全体が見る目、客観的に見る目を意味します。(中略)

 宇宙飛行士は、実際に天から、見ることができた人です。ハワイ・コナ出身の、エリソン・オニヅカさんは、日曜学校・仏教青年会と仏教を聞き、大学で宇宙工学を学び、五千人の中から選ばれ、宇宙飛行士になった人です。スペースシャトルに乗り、実際に宇宙に飛ばれた所感を聞くと、「地球では人間が一番えらいと思うが、天から見れば、動物も人間も皆、一つ円い乗物・地球に乗った同じ生き物に見えてきます」「国境など、人間が勝手に引いた線で、そのために戦争をするなど、馬鹿なことをしていると見える」「宇宙に行くと、仏さまの話が本当と判る」など発表されています。それは人間社会を離れて見る、客観的な視点です。仏教で言う《出離》になる目と言えましょう。

 浅原才市さんは「わたしの喜び 虚空のごとし 虚空世界は ひろいひろい、虚空世界に 住まわせてくださる お慈悲が 南無阿弥陀仏」と、「虚空」つまり「宇宙]、高い天に住む自分を「広い広い」と喜んでいます。

 『無量寿経』の終わりに阿難が無量寿仏を見る話が出ています。『観無量寿経』にも、韋提希夫人が諸仏の国を見る話しがあります。この仏の国を見る目は、五眼の中の「慧眼」でしょう。「見真、能く彼岸を度す」とあります。この「天眼」に通じる働きです。

 『真仏土巻』の中に、『涅槃経』の引文として「見に、二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり。―菩薩、もし一切衆生ことごとく仏性ありと聞けども、心に信を生ざれば、聞見と名づけず」とう箇所があります。いま[天眼]の働きを考えていますが、この「聞見」という言葉も、仏教的には大切な使い方と思います。

 ボーイスカウトの創始者、ベーデンパウエル卿は「青少年よ、高い所に登れ、宗教的になれる」と注意しています。高い所に立てば、今まで自分が居た所が客観的に見えてきます。一種の「出離」であり、宗教的になれるわけです。

 聖徳太子は「一度に八人の意見を聞かれた」と言いますが、それは、一つのことについて、八通りの視点を求められたという、天眼の姿勢を顕していると思います。ですから『十七条憲法』に「人みな心あり、各々、執るところあり」という高い視点を述べられています。独断という低い判断がいけないのは勿論ですが、少数の意見に偏ることなく、高い視点に立つ大事さを思います。

 この願を聞くとき、私どもの見方が、いかに低い所であったのかと、自覚せしめられます。天眼とは、別にあるのではなく、別の人々の意見を聞くことだと知る次第です。

(『四十八願の浄土』波佐間正巳著〔探求社〕)

天眼通によっていまの自分の見方が自覚されるとき、天眼を与えていきたいという願いが救いとなっていきます。仏道を歩むとは、正しい見方を求めていきたいという方向性をいただきこの人生を歩むということです。

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