2021-0902 正信念仏偈を読む(第16回)
〔本文〕
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
〔書き下し文〕
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。
(『顕浄土真実教行証文類行文類 浄土真宗聖典註釈版』203ページ)
〔現代語訳〕
この上なくすぐれた願をおたてになり、世にもまれな大いなる誓いをおこされた。
(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類-現代語訳』)
第8願「設我得仏 国中人天 不得見他心智 不至不知 百千億那由他 諸仏国中 衆生心念者 不取正覚」(他心悉知の願)
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、他心を見る智を得ずして、下百千億那由他の諸仏国中の衆生の心念を知らざるに至らば、正覚をとらじ
(『顕浄土真実教行証文類行文類 浄土真宗聖典註釈版』16ページ)
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が他心通を得ず、数限りない仏がたの国々の人の心を知り尽すことができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
(『浄土三部経-現代語訳』〔本願寺出版社〕)
世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、少なくとも百千億・百万の仏国土に属する生ける者どもの心の動きをすっかり知る超人的な読心力(他心通)を持っていないようであったら、その間はわたくしは、〈この上ない正しい覚り〉を現に覚ることがありませんように。
(『浄土三部経(上)』中村元・早島鏡正・紀野一義訳注〔岩波文庫〕)
ろくじんつう 〔六神通〕 梵語シャッド・アビジュニャー(sad-adhijna)の漢訳。六通ともいう。すぐれた智慧に基礎づけられた自由自在な活動能力。①神足通。欲する所に自由に現れることができる能力。②天眼通。世間のすべてを見通す能力。また衆生の未来を予知する能力。③天耳通。世間一切の苦楽の言葉、遠近の一切の音を聞くことができる能力。④他心通。他人の考えていることを知る能力。⑤宿命通。自己や他人の過去のありさまを知る能力。⑥漏尽通。煩悩を滅尽させる智慧。六神通のうちの前の五は凡夫にも得られるが、第六の漏尽通は聖者のみが得るといわれる。
(『浄土真宗辞典』本願寺出版社)
[他心を知る智]とは、相手の心を理解しようとする、「おもいやり」のことではないでしょうか。これが無いと、人を傷つけたり、誤解から争いになります。差別や、いじめ、暴力など、すべて他の心を知ろうとしない、傲慢な姿勢ではないでしょうか。これが国家の単位ですと、隣国の人々の心を知る努力が無いことで、侵略や戦争にまで進みます。
寺の仕事には、団体参拝の引率という場面があります。寺の団体は高齢者が多いのが普通です。長年の畑仕事で腰が曲がり、歩行も困難という人も多く参加されます。ところで、引率の住職が若い場合、自分の体力に合わせて「早く、早く、急いで」と、せきたてます。私がある時、ギックリ腰で入院したことがあります。腰が痛く歩けない苦しさを味わいました。その結果、その後、団体の引率では、急がせることを止め「ゆっくり歩きましょう」と言うように変わりました。
自分が病気になって、はじめて病気の人々の悩みに気づきます。事故などで子どもを失った悲しみは、体験のない者には分かりません。貧しさの苦しみは、裕福な身分には分かりません。その意味で、病気の体験や、貧しさの体験などは、他心を知る道に近くなる事で、心が豊かになったと言えるのではないでしょうか。逆に、健康な人や、裕福な人は、他人の心が分からない、心が貧しい人とも言えるのではないでしょうか。
過年、中国の東北(旧・満州)を旅して、至る所に、「勿忘九・一八」(忘れる勿れ。9月18日)と書かれてあることや、画劇本に、かつての日本兵が「日本鬼子」と書かれている文を見て、心が痛みました。昭和五十二年でしたか、田中角栄総理が、日中の友好条約を結び、中国に行ったとき、周恩来首相が、「日本人は、九月十八日を覚えていますか」と尋ねています。高齢者で昔の事を知っているはずの人でも、この日が何の日か知らない日本人が多いことは、まさに「他人の心を知る智を与えてやりたい」という阿弥陀さまの願いが切実な願いとして迫ります。(中略)
昭和六年九月十八日は、瀋陽(奉天)柳条湖で、鉄道の爆破事件が起こった日です。(中略)だから、この事件を、中国の人は何十年経っても「忘れる勿れ」と言うのです。
(『四十八願の浄土』波佐間正己著〔探求社〕)
▶他人の心を知っていくということは、心を通じあわせていくことです。心が通じ合うことによって私たちは本当の豊かさをいただきます、反対に心が通じ合えないことによって、対立や欲や怒りが起きるのです。
私たちは他人の行動・行為をありのままに見て、そこに自分中心の邪見・偏見の眼を入れなければその人の思いや心はある程度、自然にわかります。
また、他の人の会話や言葉をありのままに何のこだわりもなく素直に聞いていれば、その人の考え方や思想もある程度わかります。
でも、それはあくまである程度であり、すべてがわかる訳ではありません。
人間は、自分の心もありのままにわかっていません。自分の心の内面ぐらいは自分で全部わかっていると思っている人がいるなら、大きな思い違いです。
自分の予期したことのない場面に遭遇した時、こういう時にはどんなことがあっても、こういうことだけは絶対すまいと思っていたことをやったり、何があっても、この言葉だけは口にすまいと思っていた言葉が口か飛び出し、自分の言葉に自分が驚くことがあります。
『歎異抄』の十三条に親鸞聖人と唯円房の会話があります。
あるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と仰せ候ひしあひだ、「さん候ふ(信じます)」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せ候ひしあひだ、つつんで領状(承諾)申して候ひしかば「たとへば(まずもって)ひと千人ころ(殺)してんや。しからば往生は一定すべし」と。
この親鸞聖人のお言葉を聞いた唯円房の驚きはいかばかりであったでしょう。長年膝を交えて、み教えをやさしく話してくださった師の言葉とは思えなかったに違いありません。親鸞聖人のおこころがわかっていたつもりの唯円房は、改めて恐る恐る聖人のお顔を見たことでしょう。
親鸞聖人の続きのお言葉を聞いて、唯円房は「ああ、聖人はこのことを教えてくださるためであったのか」と聖人のおこころを感佩されたのです。すなわち、
われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せ候ひしなり。
どれほど深い交わりがあっても、相手の真意を見通す力はありません。
たった一つのことを可能にする道は、
三業(身・口・意の行為)の所修、乃至一念一刹那も、疑蓋(私心・私情の思い)雑じはることなき
如来の大悲心に目覚め(信)、「苦悩の群生海を悲憐して、無礙広大の浄信」を、この身にいただく以外に「他心を見る智を得」ることは不可能です。
「浄心」を開発することによってのみ「諸国国中の心念を知」ることができるのです。
この「諸仏国中の心念を知」ることなしに、戦争の絶えない恐ろしい時代、同じ人間同士が差別する悲しい情況の終焉を迎えることはないでしょう。
(『四十八願を語る 上』藤田徹文著〔探求社〕)
▶他人の心を思うとき、私たちはなかなか自己中心的な心を離れて考えることができません。だからこそ阿弥陀如来は、疑蓋(私心・私情の思い)が交わることのない智慧によって私の心を見抜いてくださるのです。
信心をいただいて、弥陀の光明の中に住む身とならせていただくと、弥陀の「光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」と、身のまわりの一切のものが、信心を与えるはたらきをしてくださっていた、いや信心を与えるはたらきだけでなく、信心を相続させるように護っていてくださっていると見ることのできる心が与えられ、身のまわりのもの一切を拝める心がいただけるのではないでしょうか。
今の和讃は、信心の人は諸仏に護られるといわれ、先の和讃では、阿弥陀の化仏に護られるといわれ、その前の和讃では、観音・勢至などの諸菩薩に護られると詠われました。観音・勢至などの菩薩方や、弥陀の化身や、十方諸仏方といっても、三十三間堂の仏さまのように、どこかに並んでおいでになるわけではありません。一つのことを、諸仏のはたらきとも、菩薩のはたらきも、弥陀の化身とも味わえるということでしょう。
親鸞聖人は、源空聖人を弥陀の化身とも、勢至菩薩の化身とも、諸仏の化身とも見られたようです。「源空勢至と示現し あるいは弥陀と顕現す」とあるように、源空聖人は勢至菩薩のお相を現され、あるいは弥陀の化身と現れられたと讃えられています。
私たちをお念仏に引き入れ、信心を相続させてくださるはたらきは、身のまわりに満ち満ちています。親に先立つ子は善知識ともいいます。鈴木章子さんは「肺ガンになって ここ あそこから如来さまの説法が 少しずつ きこえてきます 今現在説法の真只中でございます」と詠まれています。
身の周りの一切のものを通して、如来さまの説法を聞く、身のまわりの一切のものは、如来さま方のお使いです。諸仏さまのお使いです。弥陀や諸仏や菩薩方のお使いして、百重千重に囲繞して今現在説法してくださっているのです。
才市さんい「ええな せかいこうくうがみなほとけ わしもその中 なむあみだぶつ」とあるのも、同じお心でしょう。
(『聖典セミナー 浄土和讃』黒田覚忍著〔本願寺出版社〕)
▶阿弥陀如来は、私がどのような心の有り様をしているときも、私を育てて導いくださいます。そのはたらきをお聞かせいただくと、身の周りのあらゆることが、私を摂め取って捨てないという仏縁であった、と喜ばせていただけます。周りのあらゆる、どんな小さな出来事からでも、阿弥陀如来のお心をお聞かせいただけるのです。