今回のことば
うき―よ 【憂き世・浮世】
(仏教的な生活感情から出た「憂き世」と漢語「浮世」との混淆した語)
①無常の世。生きることの苦しい世。伊勢物語「散ればこそいとゞ桜はめでたけれ―になにか久しかるべき」。「つらく苦しい―」
②この世の中。世間。人生。太平記(11)「今は―の望みを捨てて」。島崎藤村、若菜集「うたへ―の一ふしは、笛の夢路のものぐるひ」。「―の荒波にもまれる」
③享楽の世界。恨の介「心の慰みは―ばかり」
④近世、他の語に冠して、現代的・当世風・好色の意をあらわす。
憂き世は牛の小車(うきよはうしのおぐるま)
(「牛」に「憂し」をかけていう)この世はつらく苦しいことばかりめぐってくるものであるの意。(『広辞苑 第七版』)
なぜ「憂き世」は繰り返えされるのか?
今回は「憂き世」を通して、「無常」を超える阿弥陀如来のはたらきを味わいます。
時代劇『水戸黄門』の主題歌に「♪人生楽ありゃ、苦もあるさ」とあるように、この世はよろこびと苦しみ、悲しみの繰り返しです。一瞬の油断によって、いままで積み上げてきたものが一気に崩れさることがあります。反対に、一瞬のよろこびによって、苦しみ、悲しみから開放されることもあります。それらが繰り返されることは、なかなか心が休まることがありません。ですから楽しくても、苦しくても私の「憂い」はなくなりません。しかも、この「無常」の世では、思いどおりにならない「憂い」も起こります。もしも、牛のように、自分の努力や能力だけが依りどころとなるなら、この世は憂いばかりが続くことでしょう。
浄土真宗のことば1:むじょう 無常
常住に対する語。因縁によって生じるものは、生滅変化して少しの間も同じ状態にとどまらないこと。仏教では、生・住・異・滅というような段階を経て生滅変化することを無常とする段落無常に対し、刹那に生滅変化を繰り返し、時々刻々と移り変わるという刹那無常を説く。仏教の根本真理である三法印の一に諸行無常が挙げられる。
浄土真宗のことば2:さんぼういん 三法印
法印とは仏法の旗印の意で、仏教の根本真理を三つにまとめたもの。諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三。これに一切皆苦(一切行苦)を加えたものを四法印と呼ぶ。諸行無常とは、因縁によって作られたもの(有為法)は常に変化してとどまることがないということ。諸法無我とは、すべてのもの(有為法・無為法)は永遠不変の実体(我)ではない、すべてのものに永遠不変の実体は存在しないということ。涅槃寂静とは、煩悩の火が吹き消された状態(涅槃)は究極の安穏の世界(寂静)であるということ。一切皆苦とは、あらゆる存在はすべて苦しみであるということ。
(『浄土真宗辞典』本願寺出版社)
「憂き世」みつめる、「無常」のまなざし
「世の中は、上り坂と下り坂のどちらが多いでしょう?」というなぞなぞがあります。答えは「同じ数」です。坂を下からみれば「上り」ですし、上から見れば「下り」です。自分の視点が変わっているだけです。私たちは物事を見る時、自分の視点が変化していることになかなか気がつきません。しかし、私の身も、ものの見方もすべてが「無常」です。
さて、仏教では、煩悩にとらわれることなく物事を見ていくことによって、真実の安らぎが獲られると説きます。そうした安らぎを獲た人のことを「仏陀(真理に目覚めた人)」と敬っていきます。お釈迦さまは、この「無常」の世で「仏陀」となり、その教えを多くの人に説かれました。そして、その教えを依りどころとして、多くの人が真実の安らぎを獲ていったのです。「仏教」とは、お釈迦さまの教えとともに、お釈迦さまの教えによって「仏陀」と成る教えです。
憂き世を超えて、阿弥陀如来の願いに結ばれる人生
しかし、私たちは、ときに「憂い」に振り回されて、教えを依りどころとすることを忘れ、自分の思いばかりになってしまうことがあります。そのような者を見捨てることなく、真実の安らぎを与えていくと願い、お誓いくださったのが阿弥陀如来です。
親鸞聖人のご生涯が著された『本願寺聖人親鸞伝絵』では、聖人がご出家される場面に、松に繋がれた牛が描かれています。松は、季節が変わっても葉の色が変わることのない常緑樹です。阿弥陀如来の願いは松にたとえられます。それは、どんな世であっても変わることのない真実の願いだからです。その願いに出遇わせていただくところに、「憂い」ばかりを繰り返す私が仏と成らせていただける「仏教」があることを、親鸞聖人は私たちに伝えてくださっているのです。
今回のまとめ
- 「無常」とは、「憂き世」をみつめる仏さまのまなざし
- 浄土真宗とは、変わることのない阿弥陀如来の願いを依りどころとする「仏教」