今月の言葉
たそがれ【黄昏】(古くは清音)
①「たそがれどき」の略。源氏物語(夕顔)「寄りてこそそれかとも見め―にほのぼの見つる花の夕顔」
②比喩的に、物事が終りに近づき、衰えの見える頃。「人生の―」
たそがれ―どき 【黄昏時】
夕方うす暗くなり「誰そ、彼は」と人の顔の見分け難くなった時分。夕方。夕暮。宇津保物語(菊宴)「夕暮の―はなかりけりかく立ち寄れどとふ人もなし」
(『広辞苑 第七版』)
「誰たそ、彼は」―― 見えなくなることの不安
今回は「黄昏」という言葉をとおして、仏さまのが、「どこでも」はたらいてくださっていることを味わいます。
車を運転しているとき、昼間は周りがよく見えて安心ですが、夕方になると途端に不安になります。特に、行きなれていない場所ですと、標識が見えにくくなり、目的地の看板などもついつい見落としたりしがちです。日ごろ意識をしなかったことも、見分けにくくなったと実感した瞬間に、問題となることがあります。
私たちはなぜ、分かり合えないのか
厚生労働省元局長の村木厚子さんは、講演のなかで「えん罪事件であったが、自分が被告人となったときはじめて、罪を犯した人の更生について考えるようになった」と話されていました。ひとはそれぞれの「立場」でしか物事を見ていくことができません。そのことによって相手の「立場」を思いはかることができなかったとき、また反対に自分勝手に思いはかったとき、苦しみや悲しみが深まっていくのが、私たちの境界なのかもしれません。しかし、この「問題」は気がついたときに起こったのではなく、すでにあったのに気がつけなかっただけなのです。
浄土真宗のことば:みょうごうふしぎ 名号不思議
衆生の思いやはからいを超え、衆生を自在に救う名号のはたらきをいう。『高僧和讃』には「名号不思議の海水は 逆謗の屍骸もとどまらず 衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり」(註585)とある。
(『浄土真宗辞典』〔本願寺出版社〕)
「名号不思議」が知らせる、私のありのまま
衆生とは「生きとし生けるもの」のことであり、「私」のことです。
親鸞聖人は『尊号真像銘文』のなかで、阿弥陀仏のはたらきは「ときをきらはず、日をへだてず、ところをわかず、まことの信心ある人をばつねにてらしたまふ」とお示しくださっています。「ときをきらわず」とは、私たちの過ごす時間を選ばないということです。「いつでも」ということです。「日をへだてず」とは、明日になったらとか、日にちが経って立派になったらということでなく「今」ということです。「ところをわかず」とは、「ここ」と「あそこ」を分けることがなく、「どこでも」という意味です。仏さまは私が、どんな時間を過ごし、どんな状態であっても、どんなところにいても、「いつでも」「今」「どこでも」護り育ててくださるのです。また、このなかで、「どこでも」というのはけっして物理的なところだけではありません。
どこにいても、どんな時でも「ところをわかず」
私たちはそれぞれが違う立場で生きています。その立場はだれにも変わってもらうことはできません。自分が空腹になったとき、いくら心を許し、わかり合った人であっても、代わりに食事をとってもらうことはできないのです。また、代わりに食べてあげることもできません。「生老病死」の問題は、私ひとりが背負っていかなければなりません。私たちは「ところをわけられた」なかでしか生きることができないのです。自分以外は「誰そ、彼は」ともわからない分断された孤独のなかで、不安や悩みをいだき、まったく動けないままたたずむしかないのです。
背負いきれない私とともに歩む仏さま
だからこそ阿弥陀仏は「あなたの思いやはからいを超えて『ところをわける』ことなくはたらく」と名のってくださいました。その名のりが「南無阿弥陀仏」の名号です。そのはたらきに「摂め取られ捨てられることはない」と聞かされたとき、私がひとりで背負わなければならない「罪悪」を、ともに背負い、育て導きつづけてくださる安心をいただくのです。
わたしは「ひとりぼっち」ではありません。他人とまったく同じ苦しみや悲しみを分かち合っていくことはできなくても、同じ仏さまのはたらきのなかに摂め取られた「一味」であったと、聞かせていただくのです。
今回のまとめ
●阿弥陀仏は、だれにも代わってもらえない私を、「ところをわかず」見護り続けてくださる。
●お念仏を申し、分断されていた私が同じ光のなかに生かされている「一味」の身であると知らされる。