2021-1021 『正信念仏偈』を読む(第17回)
〔本文〕
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
〔書き下し文〕
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。
(『顕浄土真実教行証文類行文類 浄土真宗聖典註釈版』203ページ)
〔現代語訳〕
この上なくすぐれた願をおたてになり、世にもまれな大いなる誓いをおこされた。
(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類-現代語訳』)
第9願「設我得仏 国中人天 不神足 於一念頃 不至不能超過 百千億那由他 諸仏国中 不取正覚」(神足如意の願)
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、神足を得ずして、一念のあひだにおいて、下百千億那由他の諸仏の国を超過することあたはざるに至らば、正覚をとらじ
(『顕浄土真実教行証文類行文類 浄土真宗聖典註釈版』17ページ)
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が神足通を得ず、またたく間に数限りない仏がたの国々を飛びめぐることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
(『浄土三部経-現代語訳』〔本願寺出版社〕)
世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、たとえ心のほんの一刹那の中にでも、百千億・百万の仏国土を飛び越えて行く(神足通)ということによってでも神通自在の最高の完成に達しないようであったら、その間はわたくしは、〈この上ない正しい覚り〉を現に覚ることがありませんように。
(『浄土三部経(上)』中村元・早島鏡正・紀野一義訳注〔岩波文庫〕)
ろくじんつう 〔六神通〕 梵語シャッド・アビジュニャー(sad-adhijna)の漢訳。六通ともいう。すぐれた智慧に基礎づけられた自由自在な活動能力。①神足通。欲する所に自由に現れることができる能力。②天眼通。世間のすべてを見通す能力。また衆生の未来を予知する能力。③天耳通。世間一切の苦楽の言葉、遠近の一切の音を聞くことができる能力。④他心通。他人の考えていることを知る能力。⑤宿命通。自己や他人の過去のありさまを知る能力。⑥漏尽通。煩悩を滅尽させる智慧。六神通のうちの前の五は凡夫にも得られるが、第六の漏尽通は聖者のみが得るといわれる。
(『浄土真宗辞典』本願寺出版社)
「神足通の願」というのは、(中略)神の足と書いてありますから、飛脚のように、行きたいと思う所へはどこへでもすぐ行ける、ということが神足通ということであります。さればただそれだけでも意味があるかもしれないが、しかし私がさきほど申しましたような意味で神足通を読みますと、神通は智慧でありますから、前の四つの知識によって、今度は自分の行動を自由にすることができる。心にはわかっていても、わかった通りの行動をとることができなければ、これほど不自由なことはない。だから神足通は天眼・天耳・他心という通力より得たその知識によって行動をとることである。自分がおこないをとるにおいてきわめて自由であるということが、この神足通というものではないでしょうか。
こういうふうに見ていきますと、この五つの神力の本願は、第三・第四の本願が外から与えられる幸福であるのに対して、内部に満たされる幸福を与える本願であろう。こういうふうに思われるのであります。
(『四十八願講義』金子大榮著〔法蔵館〕)
▶世間のすべてを、見て、聞き、同感する智慧によって、衆生の苦しみ、悲しみと自在に寄り添っていきたいとの願いを起こされたのです。これは自他を分け隔てなく、救っていきたいという慈悲の活動相でもあります。
神力自在なることは 測量すべきことぞなき
不思議の徳をあつめたり 無上尊を帰命せよ
「神力自在なることは 測量すべきことぞなき」の「神力」とは、辞書によると神通力、通力などと同じ意味で、仏・菩薩に具わる自由無礙な人間の力を超えた不思議なはたらきとあります。また「自在」とは、心の欲するままに何ごとも自由にできて障礙がないこととあります。(中略)
「阿弥陀如来の安楽浄土の菩薩方は、如来の神力を身につけて、一念といわれる短時間に十方無数の諸仏世界に詣でて、諸仏を供養したてまつる。その時、供養する華や香、伎楽やあるいは宝蓋、幢幡などは意のままに出現してくる……諸仏の教法を聴受し供養しおわれば、短時間に虚に騰って弥陀の浄土に還りたまう。このように浄土の菩薩方は神力自在で測ることができない。故に我無上尊を頂礼したてまつる」(取意『註釈版聖典七祖篇』一六五頁)
このように『讃阿弥陀仏偈』では、浄土の菩薩方が十方諸仏世界に往還し、自由無礙に諸仏を供養したてまつる不思議なはたらきは測り知れないと讃えられています。それを、この和讃はうけられています。
「不思議の徳をあつめたり」の語は、『讃阿弥陀仏偈』にはなく、聖人が加えられたものです。その意味は二つあり、一つには浄土の菩薩が十方諸仏を供養するなど、自利の徳を積まれたこと、二つには先の和讃「安楽無量の大菩薩 一生補処にいたるなり」以下の四首の、浄土の菩薩方が衆生救済の利他の徳を積まれたことを表しているのでしょう。そして、その二利の徳は、人間の相対・限界を超え勝れたものであると讃えられます。
「無上尊を帰命せよ」の「無上尊」とは阿弥陀如来を指します。浄土の菩薩が不思議の徳を集められるのも、そのもとは阿弥陀如来のお力によるからです。凡夫が浄土に往生し、直ちに不思議の徳を集めることができるのは、そのもとは阿弥陀如来が私たちに代わって自利利他の徳を集めてくださったからにほかなりません。それで、無上尊たる阿弥陀如来に帰命せよと勧められるのです。
自分を救うことも、他人を救うこともできない己が姿を悲しむとき、自利利他円満の無上尊を仰がずにおれません。
(『聖典セミナー 三帖和讃Ⅰ 浄土和讃』黒田覚忍著〔本願寺出版社〕)
▶仏に成るとは、自利利他円満(自らの利益と他の利益が円かに満たされている)のおさとりの身に成らせていただくことです。それは他と自在に寄り添うことのできない、私たち衆生を悲しまれているのです。
「神足」とは、精神の足、心の足、という意味で面白い表現です。身体の足が有るという事は、外出でき、移動できるという、つまり遠くに行くことができることですが、心の足とは、どんな事でしょうか。なぜ阿弥陀さまは、こんな願いを建てられたのでしょうか。第八願の続きになっている意味も感じられます。
第八願で「他人を見る智」が願われていましたが、近い他人・隣人でなく、遠くの人の事をも思うことの大事さを願われ、重ねての願となったと思います。逆に言えば、私どもが、自分のことで心が一杯で、他人や遠くの人々に思いを寄せることができない小さな狭い人間であること、それに気づいていないことを、阿弥陀さまは哀れに思って「遠くの人々を思う人になってほしい」という意味で、「神足を得しめたい」と願われたと思います。(中略)
布教で、ハワイや北米の寺に行った時、私は、参詣者に、最初の挨拶として「敗戦により、アメリカ合衆国から、民主主義や、ララ物資を貰い、感謝しています」と言いました。すると後の座談会で、多くの方々が「挨拶が嬉しかった。たくさんの日本人が米国に来るが、《ララ物資ありがとう》と言う人は無い。あれは我々が送ったのだ」と喜ばれました。ララ物資とは、六十年前の戦後、日本は外地からの引き揚げ者や兵士で、急激に人口が増え、餓死者が出るだろうと言われたとき、米国の日系人、とくにハワイでは日米戦争中、本土のような日本人の収容所への隔離がなかった縁もあり、《故郷を助けよう》と、日本に食品を送る寄付に励まれました。アジア難民救済物資の頭文字が「ララ」となると聞きました。私は終戦後の大学食堂で、この援助物資を毎日食べ、餓死を逃れました。その時分の学生の挨拶は《食べているか》《腹が減ったなあ》の毎日でした。ですから、昔のお礼を述べたわけです。
米国の寺に参る日系人は、遠い国であっても思いを寄せ、まさに、心に足がついて、日本に寄贈されたのです。今は、そのお礼として、日本が世界の遠い国々に、足を延ばし、恵まれない国々には援助することが大事ではないでしょうか。(中略)
二〇〇八年八月、中村哲医師主宰の「ペシャワール会」に入り、アフガニスタンの人々への農業指導に挺身されていた伊藤和也さんが、外国人を嫌い身代金に代えようと拉致した現地人から銃殺された報道がありました。悲しいニュースです。遠い国の幸福を願っての、この伊藤さんの心境こそ「神足」と言える行動ではないでしょうか。
第二十二願「還相回向の願」の後、第二十三願に「仏の神力を承けて、諸仏を供養し、一食の頃に、普く無数の諸仏の国に至る」と言うことが願わていますが、これは「神足」の実践と言えましょう。
『阿弥陀経』に、極楽の衆生は、「常以清旦、~供養他方、十万億仏」朝早く起き、他方十万億の方々に供養すると、あります。これも「神足」でしょう。
第八・第九の願は、個人的な注意でもありますが、「島国根性」と言われる《井戸の蛙》的な私ども日本人にとって、他心智・神足ということは、大事な教誡になっていることを思わずにはおられません。
(『四十八願の浄土』波佐間正己著〔探求社〕)
▶大きな「いのち」の繋がり、因縁に出遇うことにより、この身を豊かに生きていってほしいとの願いが、六神通を与えていきたいという願いです。自分のはからいに執着して、苦しみ悲しみを繰り返す私を、さとりの身へと育て導きたいとの願いがいま、ここに、南無阿弥陀仏となって至りとどいてくださっているのです。